i have a dream today. and

今日私には夢があり、以下

5. 超越

「終わった、もう私無理だ。」中学生の頃は何度もこの思いに悩まされた。私が何かを努力して失敗してしまうとクラスメートはよく嘲笑ったものだ。励ましや協力、応援、一切なし。もし自分がされたら嫌なことを平気でする、それは最高に愚かな人間の象徴的特徴だと、私は一生をかけてこれを信じ続ける。経験の少ない人間ほど、多くの人のそれぞれ違う悩みを共感できる能力は低い。かつ、人の気持ちを予測する能力も低い。それは仕方のないことだと思う。だから私は他人の良き感情をあまり期待しない。

 

「社会に出ると理不尽なことが多いんだよ。」いいえ違います、幾つもの道理を理解することのできる能力がない故に無意識に不満なだけ。私が理不尽だと感じたのは小学校から高校時代まで。大学に進学し、社会に出て、様々な方々と出会い本当に驚くほど理解能力が上がった。理不尽だと思わなくなった、相手が何を求めているかをすぐに察することができるようになった、要求に対してうまく対処する方法がすぐにわかるようになった。

 

「相手が理解を示してくれないんだけど。」完璧な理解をできる人間はいないよ。自分も他にも自分が大好き、自分優先。だから自分が可能な限りの努力だけすれば、相手の理解がなくとも結果は必ずついてくる。相手が理解してくれないと思っているのはみんな同じだから。平等ならば自分の努力次第で結果はそのまま出るはず。

 

みんな自分が良ければそれでいい。小学生だって中高生だって、大学生だって社会人だって、おじいちゃんおばあちゃんだって、みんなみんな自分が大好き、自己中心的。だって自分のことは自分が一番よくわかっているから、自分の中で立てられた道理というものが自分の中で輝かしく存在し続ける。しかし、それは自分の中では光であって、それが外部に輝きを放つことはできない。

 

相手が何を求めているのか。相手がどう感じているか。それらの発見や理解に努めずに自分を優先するのは如何なものだろうか。相互の最大限の剰余価値を生み出すために、ある程度の努力をしなければならない。家族でも、友達でも、同僚でも、上司でも、恋人でも、夜の営みでも、相手への思いやり。しかし全ての人へ努力し良好な関係を築けという話ではない。何かうまくいかなくなった時、うまくいかないことへの不満があるのならば、それはあなたの努力の欠如だろう。

 

類は友を呼ぶ。その通りだと思う。大きな枠組みや小さな枠組みがあるけれども、確かに人は枠を作りその中で自分の存在価値を認識できる。枠に捉われずに人が何を求めているのかを考えると、人は自分に協力的になってくれる。励ましや応援などの優しさ、また自分に対する気遣いなどの思いやりを示してくれる。たとえ類が違おうと相手が何を求めているのか、そのためにできることはないのかについて考え行動し、それと同時に存在を肯定してあげれば、枠を超えることができると思う。だから相手にいい影響を与えると自分の枠が広がり相互的に良好な関係を築ける。

 

相手の要求を超えて、自分と相手のために決断する能力。それこそ人生を豊かにする糧となるだろう。