i have a dream today. and

今日私には夢があり、以下

7. 希望

希望無しには生きられない。希望を実現させるために努力する。それが私の生き方だと思う。

 

小さい頃から自分の存在価値を見出したかった為、何かに秀たいと思い続けてきた。生まれてきたことを後悔したり、自分で自分を殺してしまうかもしれないと恐れたり、いつ親から暴力を振るわれるかったりと、死ぬか生きるかの選択を何度も通ってきた。とても苦しかった。今生きているのは希望のお陰だと思う。はやく自分の存在価値を感じたいという希望があったからこそ、常に本気で努力できた。自分の希望の為なら幾らでも頑張れる。失敗しても他は諦めない強さも身に付いた。だから、努力してる人を馬鹿にするのは本当に本当に本当に本当に許せない。

でも意外にも私は馬鹿にする人達に対して寛容だ。何故なら馬鹿にされることは慣れてるから。小学校低学年の時から馬鹿にされてきたから、馬鹿にされても何も感じない。そんなこと気にしてる暇が無い、彼らが眼中に無い。でも、一緒に頑張らなければならない場合に、仲間の中に他人を馬鹿にする人がいた時はとても苛立ってしまう。我慢を強いられるから。だから集団行動が苦手。色々な人の考え方、つまり私にとって興味無いことを気にしないといけない状況が本当に苦しい。

希望のない時期はとても辛い。息をするので精一杯。他人の言葉でインスピレーションを受けることが出来ない。自分で、自分の為に、自分の道をひらく。人生の本質を審美眼を通して見ているからこそ、考えながら前進する。たまには哲学も必要だ。物事の本性がわからずに立ち止まってしまった時、私はデカルトを頼りにしている。彼は驚く程最高に賢く、人生の光を的確に指し示してくれる。彼以外の素晴らしい相談役は現れないと言っても過言ではない。彼は誰を頼りにしていたのだろう。彼のような先駆者は想像を超える苦しみを味わってきたに違いない。

自分自身との戦いを忘れたことは一度もない。勉強するかしないか、仕事に集中するかしないか、諦めるか諦めないか、我慢するかしないか、生きるか死ぬか ー…。関わってくれた人達がどのような思いを抱き、そして自分がどのような報いをうけ、他人と自分の為に最良の決断をしていく。そしてその源泉は全て希望にある。

 

 

6. 良心

ストレス過多の状況下で集中し続けることで、破壊力のあるストレスが発生してしまうことが最近明らかになった。ストレスがストレスを生むというよりも、今迄圧縮され眠らせておいたストレスがある期間置いておくと、自然に爆発してしまうようなイメージだ。ストレスは質量が一定でも密度は高くなるのだ。3月から7月までの4ヶ月間第二次夜仕事を再開したわけだが、そのうちの3ヶ月間は真剣に夜の仕事も昼の学生生活も真剣に頑張った。

7:30起床

8:00勉強

8:40学校

16:00帰宅

17:00仕事の準備

19:00家事等

20:00出勤

2:00帰宅

2:30就寝

という疲れる暇も無い生活をほぼ毎日。12時間休みが月に2回。テスト前は3,4時間睡眠。即起き、即勉強、即学校、即仕事、即帰宅、即寝。こんなに即即した生活を送ると、人は人じゃなくなると思う。キャバクラを辞めた瞬間やっと人間らしく生きていけるという安堵感で一杯だった。

何故眠らずにほぼ毎日集中できたか?いつか必ず叶えたいという夢を持ち続けたことが大きな要因だろう。お金を貯めて海外の大学にいきたい、そして世界経済の循環効率化のために働く人間になりたい、異文化を理解できるようになりたい、という大きな目標を1秒たりとも忘れなかった。

一時期キャバクラで毎日無理して働いたことで、からだが悲鳴をあげて倒れてしまった。夜を引退しようとしたが、入学費や留学資金が欲しくてもう少し頑張ろうと再開した。たとえ仕事で嫌なことがあろうと目標金額まで頑張ろうと決意できた。保守派の自分にとって、キャバクラにくる大半の男性ははっきり言って好みでは無い。生涯で出会うことの無さそうな人達が多かった。自分の地元よりもGDPの低い土地で、これからも普通に出会わないような人達と毎日初めまして。自分は出会った瞬間、性的対象でしかない。毎晩がストレスフルな異文化交流だった。

どれだけ自分が自分を大切にしたいと思っていたとしても、それを諦めざるをえない時が必ずある。相手が何を求めていて、相手がどう感じているかを知ろうとすればする程、思いやりがあると言える。しかし人が何を求めているかを超えて、他人と自分のために最良の決断をすることこそ、難しく自分を犠牲にするだろう。そして、これは真であると、一生をかけて信じ続けるだろう。結果の善悪にかかわらず、内なるエネルギーを消費し人間相互間に大きな変化をもたらすと思う。

要するに、今迄で1番真剣に集中し続け、最終的に結果を出すことができた。3ヶ月間という短い期間だったが、己の闇と戦っている時は本当に長い道のりだと感じることが多かった。目標を見失うことなく、全体のバランスを保ちつつ、他人と自己のための決断を下す。それが毎日続いたことでいつの間にか膨大なストレスを無視していたようだ。「上司がうざい」「仕事行きたくない」「疲れた」「会いたい」「癒されたい」という愚かな人間の発言に気を取られそうな時期があった。しかし自分が一番頑張っていると自分自身で認めればそれで幸せ、という信念を持ち続け他人を励まし続けた。「頑張ってるね」「応援してるよ」「私も会いたい」「癒してあげる」という、嘘であっても決して人を傷つけたりはしない優しい言葉や勇気を与え続けた。他人を優先的に大事にしてあげたが故に、鉄のような忍耐力がついた。次生まれ変わるのなら神なのかもしれない。

つまり、過大なストレスを隠し持ち続け、自己のための努力と他人への思いやりの両方を大事にしたからこそ、今になってストレスが変貌してしまったのだろう。今でもキャバクラの夢でうなされるし、外を歩く時も苦手な人に会うかもしれないと少しビクビクするし、そして何よりも仕事関係で出会ってしまった人は記憶から消えない。毎日のように会話し、彼らに思いやりを持ち続けたのだから。私はこの変哲なストレスをどのように対処するべきか、大きな課題に直面している。そしてもうすでに、より明確な夢に向かって走り始めている。休憩なしの人生を、私は愛してやまない。

5. 超越

「終わった、もう私無理だ。」中学生の頃は何度もこの思いに悩まされた。私が何かを努力して失敗してしまうとクラスメートはよく嘲笑ったものだ。励ましや協力、応援、一切なし。もし自分がされたら嫌なことを平気でする、それは最高に愚かな人間の象徴的特徴だと、私は一生をかけてこれを信じ続ける。経験の少ない人間ほど、多くの人のそれぞれ違う悩みを共感できる能力は低い。かつ、人の気持ちを予測する能力も低い。それは仕方のないことだと思う。だから私は他人の良き感情をあまり期待しない。

 

「社会に出ると理不尽なことが多いんだよ。」いいえ違います、幾つもの道理を理解することのできる能力がない故に無意識に不満なだけ。私が理不尽だと感じたのは小学校から高校時代まで。大学に進学し、社会に出て、様々な方々と出会い本当に驚くほど理解能力が上がった。理不尽だと思わなくなった、相手が何を求めているかをすぐに察することができるようになった、要求に対してうまく対処する方法がすぐにわかるようになった。

 

「相手が理解を示してくれないんだけど。」完璧な理解をできる人間はいないよ。自分も他にも自分が大好き、自分優先。だから自分が可能な限りの努力だけすれば、相手の理解がなくとも結果は必ずついてくる。相手が理解してくれないと思っているのはみんな同じだから。平等ならば自分の努力次第で結果はそのまま出るはず。

 

みんな自分が良ければそれでいい。小学生だって中高生だって、大学生だって社会人だって、おじいちゃんおばあちゃんだって、みんなみんな自分が大好き、自己中心的。だって自分のことは自分が一番よくわかっているから、自分の中で立てられた道理というものが自分の中で輝かしく存在し続ける。しかし、それは自分の中では光であって、それが外部に輝きを放つことはできない。

 

相手が何を求めているのか。相手がどう感じているか。それらの発見や理解に努めずに自分を優先するのは如何なものだろうか。相互の最大限の剰余価値を生み出すために、ある程度の努力をしなければならない。家族でも、友達でも、同僚でも、上司でも、恋人でも、夜の営みでも、相手への思いやり。しかし全ての人へ努力し良好な関係を築けという話ではない。何かうまくいかなくなった時、うまくいかないことへの不満があるのならば、それはあなたの努力の欠如だろう。

 

類は友を呼ぶ。その通りだと思う。大きな枠組みや小さな枠組みがあるけれども、確かに人は枠を作りその中で自分の存在価値を認識できる。枠に捉われずに人が何を求めているのかを考えると、人は自分に協力的になってくれる。励ましや応援などの優しさ、また自分に対する気遣いなどの思いやりを示してくれる。たとえ類が違おうと相手が何を求めているのか、そのためにできることはないのかについて考え行動し、それと同時に存在を肯定してあげれば、枠を超えることができると思う。だから相手にいい影響を与えると自分の枠が広がり相互的に良好な関係を築ける。

 

相手の要求を超えて、自分と相手のために決断する能力。それこそ人生を豊かにする糧となるだろう。

3. 誘い

わたしは以下のことを知っていた。

 

学校で習う語学はむかしの本を理解するのに必要だし、寓話の楽しさは精神を目覚めさせる。

歴史上の記憶すべき出来事は精神を奮いたたせ、思慮を持って読めば判断力を養う助けとなる。

すべて良書を読むことは、著者である過去の世紀の一流の人びとと親しく語り合うようなもので、しかもその会話は、彼らの思想の最上のものだけを見せてくれる、入念な準備のなされたものだ。

雄弁術には、比べ物のない力と美がある。詩にはうっとりするような繊細さと優しさがある。

数学には精緻をきわめた考案力があり、これが知識欲の盛んな人たちを満足させるのにも、あらゆる技術を容易にして人間の労力を軽減するのにも、大いに役立つことができる。

習俗を論じた書物は、いかにもためになる教訓と特への勧めを数多く含んでいる。

神学は天国に至る道を教えてくれる。

哲学はどんなことについても、もっともらしく語り、学識の劣る人に自分を賞賛させる手だてを授ける。

法学、医学、その他の学問は、それを収める人に名誉と富をもたらす。

そして最後に、これらの学問を、どんなに迷信めいたもの、どんなに怪しげなものまでも、ことごとく調べ上げたことは、その正しい価値を知り、欺かれないよう気をつけるためによいことである。

 

2. 究極

子供の頃の夢というのは実に実現困難なものだと思ってきたが、どうやらそれが実現可能か否かの次元ではないということに、今更気がついた。現代社会で何が待ち受けているのかよく解らぬ時期に抱く夢こそ、最も輝かしいのである。夢見る夢子ではない。夢そのものが重要なのではない。夢の根源的価値に気づいた今、これからの生き方が変わる気がしてきている。

どのような人生を送りたいか?という質問を受けた時、自分の人生で必要なモノを思い浮かべていた。ヒトとして必要不可欠な欲求つまり食欲・性欲・睡眠欲と、現代社会で必要不可欠な理念・道徳・モラル、自らの生命の価値を肯定する為の良識・宗教・学識、これらに満足し、また新たに得るために、私の私による私の為の人間生活をすること、それがベースであるのが望ましいと思ってきた。つまり他人を無意識に排除してきた。

他人様の言動を逐一受け入れても予想以上に良い影響を貰えない故に、協調的すぎるのも良くない。故に排他的であることも協調的であることも臨機応変を前提にして大切である。つまり、ボールを受け取るが取り敢えず置いとくね、みたいなニュートラルな生き方。 

人間とは実に欲深い生き物である。欲求は常に変わるからだ。無い物ねだりが度を過ぎてしまうとまるで獣である。要求は限りない。メールして!電話して!デートして!ハグして!キスして!抱かせて!結婚して!…ヒトの進化系、それは獣である。

経済学的に、ヒトが労力と時間を費やして作り出すものには全て「価値」がある。モノには価値の差があり、貨幣で交換したり評価したりする。他人に与えなくてもヒトが作り上げた時点で価値が既に付随しているのだ。需給による価値の相対的・絶対的変化を無視したとしても、価値は存在しているのだ。目の前にある机、本、鉛筆、そして自分という商品は、価値がある。しかし、ヒトに与え、ヒトが受け取り、ヒトが認識して、そこでようやく価値が生まれるものがある。それは「愛」である。

愛とは他人に与え理解されてこそようやく愛というものになるのだ。故に愛はお金で買えない。そして最も不平等なものである。ヒトは皆愛に飢えて生きているからだ。少し発展的な話になるが、大きな価値を持ちつつも相手に与えたり貰ったりしても自らが認識しない限り価値が芽生えないものがある。「勇気」だ。勇気とは何かをする際に大きな原動力となる。自らの精神から生まれるものでありそれを認識した上で価値が生まれる為、お金では買えない。与えられ認識するという点で愛と勇気は密接な相関性があり、勇気は自らを愛するという必要条件をも不可欠である。

アンパンマンのように愛と勇気を与えることができれば、どれだけ幸せを与えられるだろうか。どれ程の大富豪でも不満足だと思う「愛」を他人に与えることが出来れば、人類全体を満足させることができる。故にその愛を得るための方法が派生したものとして、宗教は必要なのである。これが、宗教問題の激しい家庭で育った私が「宗教は邪魔だと思う一方で必要だ」と思う所以である。兎にも角にも、愛を与えることの出来るヒトは神に近い。子供の頃描いていた、愛と勇気を与える職業、例えばアンパンマンセーラームーン等。我々が目指すべきはそこではないのか。それが、どのような人生を送りたいか?の答えである。





0. はじめに

「良識」所謂「理性」は、この世で最も人々に公平に与えられたものだと思ってきた。他人様の言うことはその通りで、理性に優劣は存在しないと。しかしそれが違うとわかった今、私はここまで積んできたものを全て吟味しながら捨てていくことの重要性に気づいた気がする。恐れなく全てを取り壊すことは今しか出来ないことではないか。

かつて、こう思っていた。正しく判断する能力、審議を区別する能力、それは皆同じであるはずだ。そうでないとこの世は経済的にも心理的にも生物的にもうまく機能しなくなる筈だった。世界中の人々は皆、己の理性に満足している、それ以上求めることはないし、他人の理性が劣っていると決めつける。だから平等である。

矛盾だと思う一方で、片方は反対だと思う事は少なくない。それは事物の捉え方や対象自体が異なる故である。良い精神を持っていたとしよう。しかしそれを良く用いないと意味がないのではないか、全くその通りである。ある人と意見が分かれるのも、同一のことを同一視せずに考察するからだろう。

今まで苦しんできたのは、平等性を信じてきたからであった。しかし一方で不満足に生きてきた。何もかも、目の前に見える全ての事物を対象にした瞬間、不満足しか生まれなかった。この相反する気持ちに気付かずに苦しんでいた事実を知って、全ての積み重ねてきたものを取り壊すことを決心したのである。人間の核となる精神、心は不平等である。

私は唯一不満足に生きている人間である。このような不満足に生きる者が他にどこにいるのか、私は知らない。今まで経験した中で最も哀しいことだと思う。孤独とは良い感情だとよく言うけれど、唯一無二の孤独を感じている私は良い気分ではない。事実哀しかったのだから。しかし唯一無二の孤独を認識できたこと自体は慶を感じている。そしてこのささやかであるが大きな認識は忘れ難い。

全てを壊し構築し直すことは、大変な作業である。以前では手に取らなかったモノまで対象とし吟味し判断する事を必要とするからだ。並大抵の労力では進まない課題ではないか。しかし、壊したものの大部分が完全に捨ててしまえばいいとすれば、少し楽なのではないか。何を対象としようと、私の捉え方自体が不満である限り、対象自体は結局不満でしかない。それを認識しながらも逐一吟味し判断する労力を費やすのはどうだろう。面倒な生き方を敢えてしてきた私でも、それだけは無駄だと感じる。

不満足とは美しい、そう捉えれば、世の中の取るに足らないようなことも、美しく思える。そう考えるよう生きていこうではないか。美しいと捉えれば魅了され、哀しみは何時の間にか忘れる時が訪れるだろう。哀しみを与え続けてくれた家族、友人、その他の知人等々に、厚く感謝を申し上げる。そしてここまでの言葉を残す道を導いてくれた関係者各位に恩を忘れず、これからも精進していきたい。