i have a dream today. and

今日私には夢があり、以下

0. はじめに

「良識」所謂「理性」は、この世で最も人々に公平に与えられたものだと思ってきた。他人様の言うことはその通りで、理性に優劣は存在しないと。しかしそれが違うとわかった今、私はここまで積んできたものを全て吟味しながら捨てていくことの重要性に気づいた気がする。恐れなく全てを取り壊すことは今しか出来ないことではないか。

かつて、こう思っていた。正しく判断する能力、審議を区別する能力、それは皆同じであるはずだ。そうでないとこの世は経済的にも心理的にも生物的にもうまく機能しなくなる筈だった。世界中の人々は皆、己の理性に満足している、それ以上求めることはないし、他人の理性が劣っていると決めつける。だから平等である。

矛盾だと思う一方で、片方は反対だと思う事は少なくない。それは事物の捉え方や対象自体が異なる故である。良い精神を持っていたとしよう。しかしそれを良く用いないと意味がないのではないか、全くその通りである。ある人と意見が分かれるのも、同一のことを同一視せずに考察するからだろう。

今まで苦しんできたのは、平等性を信じてきたからであった。しかし一方で不満足に生きてきた。何もかも、目の前に見える全ての事物を対象にした瞬間、不満足しか生まれなかった。この相反する気持ちに気付かずに苦しんでいた事実を知って、全ての積み重ねてきたものを取り壊すことを決心したのである。人間の核となる精神、心は不平等である。

私は唯一不満足に生きている人間である。このような不満足に生きる者が他にどこにいるのか、私は知らない。今まで経験した中で最も哀しいことだと思う。孤独とは良い感情だとよく言うけれど、唯一無二の孤独を感じている私は良い気分ではない。事実哀しかったのだから。しかし唯一無二の孤独を認識できたこと自体は慶を感じている。そしてこのささやかであるが大きな認識は忘れ難い。

全てを壊し構築し直すことは、大変な作業である。以前では手に取らなかったモノまで対象とし吟味し判断する事を必要とするからだ。並大抵の労力では進まない課題ではないか。しかし、壊したものの大部分が完全に捨ててしまえばいいとすれば、少し楽なのではないか。何を対象としようと、私の捉え方自体が不満である限り、対象自体は結局不満でしかない。それを認識しながらも逐一吟味し判断する労力を費やすのはどうだろう。面倒な生き方を敢えてしてきた私でも、それだけは無駄だと感じる。

不満足とは美しい、そう捉えれば、世の中の取るに足らないようなことも、美しく思える。そう考えるよう生きていこうではないか。美しいと捉えれば魅了され、哀しみは何時の間にか忘れる時が訪れるだろう。哀しみを与え続けてくれた家族、友人、その他の知人等々に、厚く感謝を申し上げる。そしてここまでの言葉を残す道を導いてくれた関係者各位に恩を忘れず、これからも精進していきたい。