i have a dream today. and

今日私には夢があり、以下

2. 究極

子供の頃の夢というのは実に実現困難なものだと思ってきたが、どうやらそれが実現可能か否かの次元ではないということに、今更気がついた。現代社会で何が待ち受けているのかよく解らぬ時期に抱く夢こそ、最も輝かしいのである。夢見る夢子ではない。夢そのものが重要なのではない。夢の根源的価値に気づいた今、これからの生き方が変わる気がしてきている。

どのような人生を送りたいか?という質問を受けた時、自分の人生で必要なモノを思い浮かべていた。ヒトとして必要不可欠な欲求つまり食欲・性欲・睡眠欲と、現代社会で必要不可欠な理念・道徳・モラル、自らの生命の価値を肯定する為の良識・宗教・学識、これらに満足し、また新たに得るために、私の私による私の為の人間生活をすること、それがベースであるのが望ましいと思ってきた。つまり他人を無意識に排除してきた。

他人様の言動を逐一受け入れても予想以上に良い影響を貰えない故に、協調的すぎるのも良くない。故に排他的であることも協調的であることも臨機応変を前提にして大切である。つまり、ボールを受け取るが取り敢えず置いとくね、みたいなニュートラルな生き方。 

人間とは実に欲深い生き物である。欲求は常に変わるからだ。無い物ねだりが度を過ぎてしまうとまるで獣である。要求は限りない。メールして!電話して!デートして!ハグして!キスして!抱かせて!結婚して!…ヒトの進化系、それは獣である。

経済学的に、ヒトが労力と時間を費やして作り出すものには全て「価値」がある。モノには価値の差があり、貨幣で交換したり評価したりする。他人に与えなくてもヒトが作り上げた時点で価値が既に付随しているのだ。需給による価値の相対的・絶対的変化を無視したとしても、価値は存在しているのだ。目の前にある机、本、鉛筆、そして自分という商品は、価値がある。しかし、ヒトに与え、ヒトが受け取り、ヒトが認識して、そこでようやく価値が生まれるものがある。それは「愛」である。

愛とは他人に与え理解されてこそようやく愛というものになるのだ。故に愛はお金で買えない。そして最も不平等なものである。ヒトは皆愛に飢えて生きているからだ。少し発展的な話になるが、大きな価値を持ちつつも相手に与えたり貰ったりしても自らが認識しない限り価値が芽生えないものがある。「勇気」だ。勇気とは何かをする際に大きな原動力となる。自らの精神から生まれるものでありそれを認識した上で価値が生まれる為、お金では買えない。与えられ認識するという点で愛と勇気は密接な相関性があり、勇気は自らを愛するという必要条件をも不可欠である。

アンパンマンのように愛と勇気を与えることができれば、どれだけ幸せを与えられるだろうか。どれ程の大富豪でも不満足だと思う「愛」を他人に与えることが出来れば、人類全体を満足させることができる。故にその愛を得るための方法が派生したものとして、宗教は必要なのである。これが、宗教問題の激しい家庭で育った私が「宗教は邪魔だと思う一方で必要だ」と思う所以である。兎にも角にも、愛を与えることの出来るヒトは神に近い。子供の頃描いていた、愛と勇気を与える職業、例えばアンパンマンセーラームーン等。我々が目指すべきはそこではないのか。それが、どのような人生を送りたいか?の答えである。